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2004年 1月の深泥池水生生物研究会からのお知らせ

連絡係 安部倉 完

出席者

竹門 康弘、田末 利治、伊藤 昭雄、安部倉 完、池澤 篤子、成田 研一、上野紗弥子、野尻 浩彦、小椋 純一、中村 治、近藤 博保、松井 淳 、島 寛光 、島 昌子 、竹内 千榮、岡田 英三郎、岡田 和子
17名

(敬称略)

1. はじめに

今回は「池の昔を語る会 」という題名で、池の端(上賀茂狭間町55番地)にお住まいの松尾三郎さん(89歳)にお話をしていただきました。松尾三郎さんは昭和2、中学生のころから深泥池にすんでおられたそうです。それから、60年間以上、現在に至るまでずっと池の移り変わりを見ておられたお方です。深泥池の保全を行う上で、昔の池の情報を知ることは大変有用なものです。今回は、松尾さんのお話を元に、かつての深泥池の様子をまとめていきたいと思います。

2. 深泥池自然

当時は、深泥池のそばには一軒しか家がなく、まわりには、田や野菜畑が広がっていた。また、現在の池の西側の道路には、こなというやせた田があり、当然道は舗装されておらずあぜ道であった。池の深さは現在とはほとんど変わらず、水は大変きれいでした。泥は当時も多く、泳ぐと毛穴にびっしりと泥が詰まり痒くなったそうである。現在のように、泥からメタンの匂いがすることはなかった。浮島は、現在より大変小さく、5分の1から10分の1程度の広さしかなかった。また、岸辺には、現在のように植物が生えてはおらず土手になっていた。池の周辺の山林は、赤松がおおく、林床も明るかった。

3. 池と人の係わり合い

池の自体を直接、利用することは少なく、毎年正月にスグキを洗うのにつかった程度である。スグキは、その当時は大変高価である割にはおかずにもならなかったので、自分たちの食用にすることはほとんどなく、町に持っていって料亭に売っていた。ジュンサイは池の中央付近、現在の浮島のある地点までびっしり覆われていたらしく、7月ごろ午前中、3隻ていどの船を出しその芽を摘んでいた。これも、自分たちの食用にすることはほとんどなく、料亭に売っていた。昭和30年ごろ、ジュンサイが少なくなり、採るのをやめたそうである。岸辺に生えているマコモを草履の材料にすることはあった。漁業については、深泥池のコイやフナなどの魚を食べることはまずなかった。ただ、水路では、夏の土用の日にモンドリを仕掛け、ドジョウを食べることはよくあった。水の管理については、深泥池から水を田んぼに引くことはあったが、そもそも、その一帯は水が豊富で雨が多く、深泥池の水はさして重要ではなかった。台風の前には水門を開け水位を下げていた。池の泥を肥料にすることもなく、公園側に泥抜き用の土管はあったのは記憶しているが、それを使っているのを見たことはない。池は、子供たちが泳いだり(親からは危険なため、禁止されていた)、20年前くらいからはヘラブナ釣りなどが盛んだった。周辺の山々では、主に柴を集めるのに使っており、松の葉などを冬の前に燃料として蓄えていた。また、山には長い柄のついた鎌を持って行き、高い枝を切り落とし薪とした。クヌギなどの落葉樹は少なく、松が多かった。マツタケはよく生えており、山で採ってきてはその晩のおかずとした。

4. まとめ

深泥池周辺の人たちは、池を管理することもなく、また、あまり手を加えることもなかった事が、松尾さんの話でよくわかった。しかし、池周辺の山々、深泥池の集水域となる場所は、生活の場として頻繁に使っており、柴や落ち葉などを集める行為が、雨などによって池に流れ込む有機物の量を少なくし、池を貧栄養に保ってきた可能性は高い。現在、研究会では、周囲の山林の管理にまでは手が及んでいないが、こうした山々の管理についても考えていく必要があるだろう。

5. 謝辞

今回、貴重なお話してしてくださった松尾三郎さん、また、今回の談話会の開催にあたり、ご協力してくださった島 昌子さん、島 寛光さんには、深く感謝の意を申し上げます。

6. 次回の打ち合わせ会

次回打ち合わせ会は2月8日( 日曜日 ) 14時から深泥池会館で行います。
ふるってご参加ください。

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